べんべんリレーBLOG
第11回 掃除の効用
貸付関係委員会委員長 田仲美穗
昔々,私が高校生であった頃,いつも掃除をしている先生がいました。年配の数学の先生でした。先生は,授業があまり上手でなく,授業の中身は皆目覚えていません。しかし,先生が,休み時間や放課後,生徒たちがふざけて遊んでいる中,ニコニコしながら廊下や教室を箒で掃いておられた光景をよく覚えています。
悪童たちは,そんな先生をバカにしていました。「機嫌ようやっといてもらお」とか,「次の誕生日は,みんなで箒をプレゼントしたらどうや」などと言い合っていました。
私は,そのころ,掃除が大嫌いでした。自宅でやらないのはもちろん,学校で割り当てられた掃除ですら逃げ回って,よくまじめな同級生から文句を言われました。
なぜ逃げ回っていたか。どうせ汚れるからやるだけ無駄とか,掃除なんてつまらん作業は自分のやることじゃないとか,そんな気持ちであったように思います。
今,私は,我が家の前の道路や庭を,せっせと掃いています。掃きながらいつも,あの先生のことを思い出します。
なぜ,せっせと掃除するようになったかというと,最初は義務感からでした。自分の家の前の道路がゴミだらけではみっともないと思ったのでした。
しかし,しょっちゅう掃除をするようになると,いろいろなことに気付くのです。道路の出来具合,凹み,壁の色形,いつも誰かが捨てる煙草の吸い殻,僅かな隙間に生える雑草,落ち葉,花の香り,通勤の大人たち,通学の子どもたち,日の出,風,温度,湿度。そこは我が家の目の前であり,我が家で暮らす限り,しょっちゅう行き来するところです。そういう身近な場所がどんな状態か,私は誰よりもよく知っています。また,我が家の前の状態をよく知ることで,他所の道の様子についても想像をめぐらす手がかりを持っています。
考えてみれば,およそ修行には掃除がつきものです。お寺さんであれ,大工であれ,料理人であれ。道具を使う場合は道具の手入れも掃除と同様に必須です。そうやって,仕事場や生活の場をよく知り,道具のこともよく知って,プロとして仕事が出来るようになっていくのです。
してみると,修行時代にうんと掃除をさせるのは,決して,単なる嫌がらせでも,単なる労働力の利用でもないと思えてきます。自分の生きてゆく場所をよく「知る」ことの大切を,そしておよそ「知る」ということの第1歩を,発見させ,体感させるためであろうかと思うのです。
いろいろなことに気付くようになったときから,掃除はちっとも苦痛でなくなりました。せっせと掃きながら,掃除ってのもなかなか悪くないと思っています。先生も,きっとこんな風に思いながら,僕たちの前で廊下を掃いていたに違いないと想像します。
そして,私も,少しは先生みたいにニコニコしながら道を掃いて,通りゆく小学生たちに,「おはよう」と声をかけるのです。
掃除をしてみませんか。道具の手入れをしてみませんか。そして,周りの人たちに挨拶してみませんか。きっと新しい発見があります。