べんべんリレーBLOG
第3回 震災から2年を迎えて
不動産管理委員会委員長 芦田如子
東日本大震災から2年、平成25年3月9~11日、宮城県気仙沼市へ赴きました。震災直後に気仙沼市大谷地区の避難所を訪問する機会があり、その後も年に3~4回医師や介護関係のチームで同所の仮設住宅訪問を続けています。「被災地の現状を発信して」「忘れないでほしい」と言われましたので、以下、現地の住民の方に聞いた生の声を書きます。
「明日で震災から2年たつ。復興したかと言われると、がれきの撤去は終わったけど、そこまでという感じ。衣食住、衣食は足りてきたが、住が問題。高台移転や災害復興住宅事業、平成27年度中に建設予定。あと3年もかかる。いま一番の懸案事項は雇用の問題と住宅の問題。土木工事や焼却施設は賃金が高いので皆働きに行くが水産加工業は賃金が低くて人が集まらない。建設業は一時的なバブルだが再建ラッシュが終われば雇用もなくなる。その後の労働者の行き場がない。地域の復興という視点からは水産加工業などの地域の継続的な地場産業の基盤を復興させないといけないが、海の近くでは働きたくない人が多い。海沿いでの再建や就職に躊躇。住む場所の再建は資金の問題もあるが資材の高騰がすごい。水、セメント、砂利不足。インフラ整備が優先で、個人の自宅再建まで資材行き届かないのが現状。仮設住宅での生活は様々なひずみが出てきている。働く世代は雇用問題とストレス。生活の見込みが立たない精神的不安。生活形態の変化は高齢者や子どもにしわ寄せ。医療機関では循環器疾患増大。避難生活の弁当や菓子パンの偏った食事・ストレスで糖尿や高血圧が増加。子ども達は4畳半2間の狭い仮設住宅で、食事と寝る場所が一緒、勉強机もない、遊び場もない。仮設の集会所を終日、勉強や遊びのスペースとして開放しているがプライバシーがない。幼稚園も津波で流され小学校の敷地を間借りしている状態。保育所も学童も津波で流された。再建の目途はなく、公民館の1室で30人程度をみている。学校の校庭は仮設住宅が建設されており校庭は使えない。特別養護老人ホームも津波被災し入所者で死者も出た。再建中だが津波への恐怖心が大きい。同じ場所に行きたくない。また津波に襲われるかもという恐怖心。いまでも余震が怖い。少しの地震の揺れでも怖い。先日あった夕方の津波警報も怖かった。寺の裏山に夜中に避難した。誰も避難警報が解除されるまで、誰一人戻らなかった」。
大谷地区の自治会長さん曰く「自分は公務員として40年勤続、退職金で自宅を建てて6年目に津波で流された。年金生活、ローン無理、公営住宅へ行くしかない。退職金で建てた自宅の設計図が津波後に見つかった。津波で浸水したためカビが生えた設計図だったけど、見返す度にいろいろ思い出す。生まれ育った地域の生活どうなるのか。大谷地区で被災した住民は仮設へ154世帯入居し、10世帯自宅再建、3世帯再建中。その他の世帯は見込み無し。もともとこの地域は半農半漁。水産加工業へ働きに行き休日は農地を耕していた。津波で水産加工業が壊滅し働き口がない。地区の神社も神輿も津波で流されお墓も流された。大谷地区で死者90名以上、未だ行方不明者が24名もいる」。
現地は傷跡が残り、法的なケアのほか被災者の心のケアの必要も指摘されています。復興には長い時間がかかります。当事者のお話を傾聴し、社会に発信していくことで、被害を風化させず、今後も支援に関わっていければと思います。