べんべんリレーBLOG
第59回 厄払いに行ってきました
特約店委員会副委員長 平澤威海
私事ですが、昨年の誕生日で不惑を迎えました。満40歳ということは、数え年で42歳。男性の数え年42歳ということは…大厄です。元来、私はこういった迷信的なものはあまり信じない質なのですが、昨年患った腰の調子は良くなる気配がないし、商売が繁盛する気配もないということで、ちょっと心細くなり、妻の勧めもあって厄除けをしてもらうことにしました。
ところで、改めて「厄年って何だろう?」ということで、調べてみますと、一説では陰陽道に由来するといわれているようですが、起源ははっきりとしないようです。ただ、その歴史は古く、既に平安時代の文献に厄年に関する記述が見られます。現在一般的にいわれる男性:25歳・42歳・61歳、女性:19歳・33歳・37歳という本厄は、地域や宗派によって異なるとのこと。何歳が厄年か、何故その年齢が厄年とされるのかも、様々な説があるようです。中には、「42」は「シニ」で死に繋がるとか、「33」は「サンサン」で散々に繋がるなどといった語呂合わせの説明もありましたが、いかにも日本人らしいなと、ある意味で妙に納得です。
そのような中、個人的に最も納得できたのは、厄年は長い間の体験に基づいて出来上がった生活の知恵であるというもの。つまり、厄年とされる年齢は、肉体的・精神的な面はもちろん、社会的な立場にも変化の表れる時期だから、気を付けなければいけないよ、という警告だという説です。後付け的な感はありますが、この風習がこれだけ長い間、広く根強く残っていることの説明として、納得できます。私の身体も、残念ながら無理が利かないように変化してしまったということでしょう。
さて、肝心の厄払いですが、清荒神清澄寺へお参りに行くことにしました。清荒神は真言三宝宗の寺院で、平安時代初期からの古い歴史があります。いわゆる密教の寺院で、歴史もあるということで、何となく厄払いの効き目がありそうな感じがします。冒頭で、迷信的なものはあまり信じないと言っていたのでは?という突っ込みはご容赦ください。どうせなら効きそうなところで厄払いをしてもらいたいと思うのが人情というものです。
密教ということで、当日は護摩の炎の前で何か特別なことをしてもらえるのではないかと期待していたのですが、寺務所で申込用紙に住所と名前を記入して、いくらかの御布施を納めて終了。あとはお寺の方でお祀りをしてくださるので、自宅にお札をお祀りしておいてくださいとのこと。何とも合理的で拍子抜けしてしまいました。
とはいうものの、一仕事終えたようなすっきりした気分で、本厄も無事に乗り切れそうな気持ちになりました。こういうものは、気持ちが一番大事です。病は気から、ともいいますし。
ところが、厄払いをして間もなく、インフルエンザに罹ってしまい、身体も仕事も大変なことに。辛さのあまり、一瞬、「ちゃんとお祀りしてくれたのかな?」という邪な思いが頭を過りましたが、これはいけません。厄払いをしてもらったから、インフルエンザ程度で済んで、無事に復帰することができたと考えることにしました。何事もポジティブに捉えることが大切ですよね。